【都内城跡めぐり】 赤塚城(板橋区)

久しぶりの城跡散策は、自分にとっては未走破地域でもある板橋区は赤塚にある「赤塚城」

1400年代後半には歴史に出てるくる城で、太田道灌の時代に道灌に従い石神井城攻略などを行った千葉氏の居城
(もともとは赤塚氏一族が作った城らしいのですが、詳しい資料なし)

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今は赤塚城址公園になり、その中に城址の石碑が

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本丸(一の郭)跡と言われております

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城跡西側には空掘りらしき跡が

北側には池があり、それが水掘りの後とも

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こちらが復元CG
http://hya34.sakura.ne.jp/busyuu.htmlより抜粋

赤塚城城主だった千葉氏の流れはこんな感じ

康生元年(1455)、千葉一族の馬加康胤は、本家である千葉胤直を亥鼻城に攻めた。抵抗しきれなくなった千葉胤直・胤宣の父子は、千葉県多古町の多古城志摩城で籠城したが、結局、城は落ちて、自害して死んだ。
 その時、まだ子供であった実胤・自胤の兄弟はかろうじて城を脱出、武蔵に逃げ込み、太田道灌を頼っていくことになる。千葉氏の本家筋の子を保護することは戦略的に意味があったものであろう。道灌は二人を保護してそれぞれに城を与えた。
 兄の実胤は石浜城主となり、弟の自胤がこの赤塚城主となった。この自胤は千葉一族の本家筋に当たる人物であるから、赤塚城は東京にありながら、千葉一族の居城となったのである。
 その後千葉兄弟は大田道灌に属する武将として、江古田。沼袋の戦いなどに参戦した。
 『小田原衆所領役帳』によると、千葉殿は赤塚六か村で80貫文の知行を得ている。太田氏の勢力が衰えてしまった永禄年間には、北条氏に属する武将となっていたのである。
 ところで、父を殺害した千葉家諸流はその後、本佐倉城に移って、千葉本家を名乗っていたが、そちらの千葉氏も北条氏に属している。つまり仇敵どうしが同じ北条氏に仕えていたということになる。同じ家臣団として連なっている以上、両者は顔を合わせることもあったのではないかと思うのだが、その時お互いはどういう気持ちでいたものであろうか。
 天正18年(1590)、小田原の役によって北条氏が滅びると、赤塚城も廃城となったものと思われる。

室町中期より戦国末期まで歴史に名を残した城
それが赤塚城です

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