グリンパーク球場と米軍宿舎の時代

過去に数回記事にしてますが、当店のある西武柳沢は戦前、戦中は南側にある武蔵野市八幡町の中島飛行機武蔵野製作所に付随する下請け工場や社員宿舎、はたまた通勤客が西武柳沢駅を利用し最初のにぎやかな時代

戦後は中島飛行機跡地にグリンパーク球場(国鉄スワローズメインで5万人収容の東洋一の野球場)と同じくグリンパーク米軍宿舎(キャンプグリンパーク)があり、三鷹駅から武蔵野競技場線も伸び、戦後復興のシンボルになるかと思いましたが、当時は武蔵野市では田舎過ぎて、そして砂ぼこりのひどい球場で選手、観客共に不評でわずか2年で閉鎖
しかし、米軍宿舎はベトナム戦争終結まじかの昭和48年位までは存在してました

そんな頃の写真などを

右上あたりが今の武蔵野市役所
球場は現UR住宅
左側のマンション群が米軍宿舎(真ん中は都営住宅)

グリンパーク球場と言われたり、東京スタジアム(オリオンズの本拠地の足立区の球場ではない)と呼ばれたり、統一名称がなかったのも混乱を引き起こしました

国鉄武蔵野競技場線、武蔵野競技場駅

球場無きあとは米軍宿舎(進駐軍)だけでしたが、周辺には米兵相手のアメ車屋(グリンパークモータース)や土産物屋(スーベニールショップ)ラーメン屋も英語の看板でチャイニーズフードレストランと
スナックなども米兵相手の店もありまして、柳沢側にはつい最近までその米兵を相手にしてたママさん(おばあさん)のスナックが存続しておりました
まだ伏見通りも保谷市側(現西東京市)に入るとすごく狭くバスもノロノロ運転、この頃から拡張計画はありましたが、拡張完成は40年後
青梅街道もまだ砂利道でこの10年後くらいに今の道幅、完全舗装に
西武柳沢南口から青梅街道に抜ける道も30年前に完成
駅前の都営団地群も今の姿になったのは同じく30年前
それ以前は

今のファミマ前、チャオや交番もありませんね(交番は青梅街道沿いにありました)

当店は、そんな米軍宿舎のあった頃の西武柳沢を今に伝えるロードサイドの店、そんなコンセプトでやっております
福生、入間、横浜本牧だけでなく立川、調布(関東村、現調布飛行場)朝霞(キャンプドレイク)光が丘(グラントハイツ)などなど数多く多摩地区には米軍基地、住宅が存在しておりました
そんな中、吉祥寺の外れから東伏見、西武柳沢にかけてもそんな施設やカルチャーがあったことを伝えていければと思っております